差別がなくなったらいい、と、本気で思っている。
でも、差別をする人の心を改心させるには、彼らに届くような言葉で伝え、その中にハッとさせる一撃を潜ませないといけない。
本当に届くべき人に届かないのが、歯がゆい。
いつだって自分がマイノリティになる可能性があることを、自覚していないのだろうか。
心無い人に会ったりすると、イライラする。
今日は仕事の一環で、心無い人の行動などを間接的に学ぶ機会があったが、それだけでイライラが止まらなかった。
それだけでは済まず、身近にいる人で、心無い人と同じことをしている人を探し出し、勝手にイライラした。
それとは別の話だが、イスラム教について分かりやすく書かれている本があり、それを最近読んだのだけれど、非常にイライラしてくるのである。もちろん、本や著者に対してではなく、本が指摘している課題に対してだ。
『となりのイスラム』いわく、西欧世界とイスラム世界は水と油のように、根本的に違うのだという。
西欧世界は人間を絶対としているが、イスラム世界は神を絶対としている。
そして、西欧世界は他国や他民族との違いを意識して国のアイデンティティーを確立してきたが、イスラム世界はあくまで神と自分との契約であり他者のことは関係ない。
そのような考え方の違いを受け入れられず、西欧世界がイスラム世界に対して、厳しい態度を取り続け、それに対するイスラム側の不満の爆発もあって、現在のようなイスラム主義勢力による戦争が起きている。ざっくりとした概略である。
この内藤正典先生の書籍は、非常に分かりやすい。学がなくても理解できる。是非とも多くの人に読まれたい一冊である。
内藤先生は日本人で学者であるが、もし、内藤先生がイスラム教徒だったら、この本の受け取り方は変わってくるのだろうか。
もし変わってくるのだとしたら、それは差別ではなかろうか。差別とは、人で判断してしまうところにも潜んでいる。
恥ずかしいことに、私も発言者によって、言葉の捉え方を変えてしまうことがある。
その方が手抜きできるからだ。
発言者の属性によって、その傾向から発言を予測する。例えば、「学者はめっちゃ勉強していていろんなことを知っている。だから、学者の発言には偏りがなく、正しいことを言っている。」みたいなイメージ(ちょっと極端ですが)。この方が、話を聞くたびに新しい気持ちで相手に向き合うよりも大分省エネだし、要点を掴みやすいのである。
でも、ひょっとしたら、そういうところに差別の種が植わっているのかもしれない。
私は、他者の発言を鵜呑みにすることも、疑ってかかることもあるが、どちらもありすぎてはいけないのだと思う。バランスが取れていないといけない。
そして、最近は、スマホの影響もあって、自分の意見と同じ意見しか聞き入れない人が増えているみたいだけれど、それも他者への差別に繋がらないかと危機感を感じる。
このことを、そういった人に分かりやすく、それでいて衝撃的に伝えたいのだけれど、なかなか難しいよな、というところまで波及して、結局今日一日ずっとイライラしていた。
イライラしていたので、帰り道も大股の早足だったし、今日のブログもいつにも増して言葉が尖っているかもしれないが、イライラのためとご了承願いたい。
自分にも反省するところは大いにある。